あめいろの脱・徒然日記

今日という1日に彩りを

行動するって大変だけども、ある意味では楽。

最近慌ただしい日々を生きてるなーと思います。
いや、社会人なのだから暇な時間なんてないだろうという話なのだけども、さらに忙しくなってしまったなーと思うわけです。

 

いや正確には忙しく"してしまった"。

 

自分で予定入れて、勝手に自分で忙しくしてりゃ世話ないわけです。そのせいか、最近仕事してる時が1番楽という矛盾が生じていたりします。いや何でだ。

久々にnoteを書いているという感覚なのですが、記事一覧を見返していると、12月の頭にも1つ書いていたらしい。記憶ないけども?

忙しく生きてると思うことは、悩まなくなったなーということ。というか深く考える時間がない。てか悩むことに脳の力を使いたくない。行動する方に脳を使っているから。

悩むことって、体力と時間があって初めて出来ることなのかもしれないと思います。10代の頃に今思えば小さなことでクヨクヨと悩めたことは幸せなことだったのかもしれない。


それだけ、"自分に向き合っていた"とも捉えられるから。


ものは言いようですねw
社会に出ると、他者に貢献することでお金を稼ぐことになるわけで、自分のことに悩むことが必然的に少なくなるんでしょうか。良くも悪くも。

少し前まで、仕事でもプライベートでもモヤモヤすることがあって、どこか地に足の着いていない時間を生きていたのですが、忙しくしているとモヤモヤもどこかに行ってしまいました。
何だったんだアレは。

そんなわけで、彼女と復縁したり、新しく友達が出来たり、自分の夢を叶える為、学校にも行くことになりました。

成功者が人生を変えたいなら行動しろというけど間違いない。考えれば考えるほど、気がかりがいっぱい出てきて動けなくなる。

恐れや不安も行動が打ち消してくれる。


だから、信じて進もう。


今を生きなきゃね^^



 
 
 

あめいろ
20代介護士。ときどき作家志望。 https://kakuyomu.jp/users/kou0251
 
 
 
 
 

人生最期に見る夢は.....

介護の仕事をしていると、よく誰かの人生の最期に携わることになる。

あまり良いものとはいえないし、亡くなられた方の家族と上司が話しているのを見ていると、いつか自分にも来るんだろうなと朧げに思えてしまう。

両親といつか会えなくなるなんて、正直考えたくも無い。

中1の頃、自分がいつか死ぬことを実感してからというもの、未来のことを考えることが怖くなった。
現実なんて見たくもなくて、将来なんてどうでもよくなってしまった。

そのまま、大人になって、20代も半ばを迎えている。
もう、気付けば社会人を5年経験している。
良い大人になってしまった。

子供の頃に夢見た大人とは程遠い。
大学も中退して、低賃金の為、実家暮らしを余儀なくされている。

こんなはずではなかった。

まだ、まだ、終われない。

このまま、死ぬなんて、まっぴらごめんだ。

まだ、何も成してない。

まだ、何も残せていない。

まだ、死ねない。


まだ、夢は夢のままだ。

夢を現実にするまでは、まだ終われない。


でも、きっと、どれだけ夢を叶えようと、夢が終わることはないのだろうと思う。


人は願望の生き物だと思っている。

常に理想を脳に携えている。

きっと、死ぬまで、ずっと。


最後を迎える、その時まで。


その時は、今とは違う夢を見ていたい。

僕の夢は、まだ途中。


人生最期に、僕はどんな夢を見るのだろうか。


走り続けるだけだ。

夢見る少年じゃ、もうないからね。

25歳になって思うこと

私事ですが、25歳になりました。

子供の頃から考えると、
「もう25!?歳とったなー自分!」
って感覚なのですが、職場でその話をすると
「何言っとんのwまだまだ若いやんw」
なんて一蹴されます。

いや25だよ?ゆうて大人よ?いまだに短い坊ちゃんヘアしてるけど、大人ですよ一応。社会人歴も5年目なんですからね、実は。

25歳って、もっと大人なんだろうな、と子供の頃は思ってました。でも、いざなってみると、そんなに大人になってないなーと言うのが実情だったりします。

子供の頃は、25歳くらいで結婚したいなーなんて漠然と思ってましたが、全然無理。汗
結婚を決めた相手には運良く出会えたものの、結婚は夢のまた夢というほど、お金がない。
そして、やりたいことも、まだまだある。
身を固めるには早過ぎるほどに。

大人になって、社会を経験して、世界が自分が思うより、ずっと広いことを知って、肉体の衰えが思ったよりも早いことを知って、もっともっと、人生を楽しみ尽くしたいと思うようになった。

もちろん、結婚だってしたい。
でも、フルマラソンは完走したいし、甲子園は生で観たいし、新喜劇だって生で観たい。オーロラも観たいし、アイドルのライブも生で観たいし、大学だって卒業したい。
そして、何より本も出版したい。

叶えたい夢がたくさんある。
自由に笑って、今を生き続けたい。

今日もアホほど遊んで、死ぬほど疲れた。
疲れた身体で小説を更新した後、またnoteを書いている。

幸せな日々だ。

25歳。

もう25歳。
だけど、まだ25歳。

25歳なら、25歳の自分を楽しむことにするよ。

明日は今日より楽しむぞ!
(明日から仕事だけども)

好きなことで生きるということ

夢を叶えるゾウ』という本を最近読んだ。
言わずと知れた自己啓発本であり、自己啓発界の頂点に君臨しているといっても過言ではない。
そんな世界があるのかって話だけども。

 

夢を叶えるゾウとは、成功したいと願う平凡なサラリーマンの主人公が、ゾウの神様のガネーシャから様々な教えを受けて成長していく物語である。

 

読みながら、ガネーシャの課題に挑戦していくのですが、その内容がまた楽しい。
別にやってることは普通なのだけど、ガネーシャに出されると、なんか嬉しくてやってしまうという。
ただ、ガネーシャの課題で唯一やっていないことがあって、それは靴磨き。これに関しては、まったくノータッチ。
靴磨きを買う時間をケチった為だ(おい)。

 

夢を叶えるゾウで強く言われていたことは
成功者とは、人の役に立つサービスを作ることでお金を稼いでいたということ。
その為に他人から好かれ、助けられていたということ。
そして、好きなことに楽しく取り組んでいたということ。

 

簡単に言うと成功者とは
1.他人に優しく
2.自分の好きなことをやって
3.人の役に立っていたのだ。

 

実にシンプル。

 

最近は、YouTubeの発達もあり、
「好きなことで生きていく」
という言葉を、よく目にするようになった。

好きなことで生きていくって、
楽しいことばかりじゃないという言葉をよく聞く。
もちろん、仕事にする以上、自分以外の誰かが関わり、責任というものが発生する。
楽しくなくなるというのも頷ける。

 

僕は最近、好きなことばかりしている。
仕事以外の時間は、こうしてブログを書いたり、小説をネットに投稿したり、本を読んだりしている。学生の頃に戻ったような生活だ。
だが心地よい。
まだ収益化なんて出来てない。
でも心地よいのだ。
てか、これだけ好き勝手書いていて、ペルソナもクソもない文章ばかり書いていて、収益化出来たらとうの昔に出来ている筈だ。
出来ないから色んなビジネスの話に振り回されて今に至っている。ただ、そのお陰で、こうして色んな話が書けるのだけども。
仕事にはなってない。
でも、自分を表現することが出来ている。
それは僕にとって、凄く満たされている状態だ。
できることなら、書く仕事だけで生計を立てれたら1番良い。少しでも収入が安定したら書く仕事に専念したいとすら思う。
僕にとって、自分を表現することはライフワークだ。これをしなきゃ死んでも死にきれない。
自分のすべてを表現して空っぽにしないと死ねない。死にたくない。
自分の時間をちゃんと確保したい。だから健康でありたい。お金が欲しい。良好なコミュニティにいたい。

夢を叶えるゾウの主人公は、諦めず夢を叶えた。
現実は物語のようにはいかないかもしれない。

 

それでも、
僕の頭の中では「描けよ」と言うアイツの言葉が焼き付いている。

 

夢は叶わないかもしれない。
でも、追わずには終われない。

 

それが、夢なのだから仕方ない。
叶う日まで、描き続けるだけだ。

共同体感覚の話

最近、知人から
「深夜アニメが感動し過ぎて、自分と重ねてしまう」
といった話を聞いた。

 

僕もそれはよくある話で、だからこそ創作することが好きだったりする。
この頃はnoteにひたすら思ったことを書いたり、ネットに小説を投稿する毎日を送っているのだけど、大変だけど充実していたりもする。
好きなことをしているときって、辛くても楽しいのだ。
スポ根系漫画を読んでいると、主人公が頑張る姿に憧れてしまう。何かに熱中して、その熱中している姿で誰かを感動させられる。
自分もそんな奴になりたかった。

物語を読んでいて、感動することが多いのは、主人公に共感しているから。いやむしろ逆なのかもしれない。

自分の気持ちを理解してほしいから、人は物語を読むのではなかろうか。

 

共感するのではなく
共感してほしいから。

 

誰かと同じ感覚のときって、安心するのだ。
バスケでアシストが綺麗に決まったとき
好きなアニメのネタを分かってもらえたとき
学生時代あるあるを分かってもらえたとき

心が通じあえた瞬間って、めちゃくちゃ気持ちいいのだ。物語を読んでいる時って、その感覚に近いのかもしれない。

 

共同体感覚という言葉がある。

共同体感覚とは、人と繋がっているんだという感覚。この状態の時、人は幸せを感じやすいのだとか。

あるセミナーに参加したとき、自分のすべての悩みや想いを打ち明け、それを理解してもらえた時、何故だかすごく幸せな気持ちになった。ずっと敵に見えていた世界が一気に味方に変わったような感覚。
セミナーにハマる人間の気持ちも分からなくもない。洗脳されてるときの方が人って幸せなのかもね。

 

誰かと一緒にいるって、
誰かと同じ想いでいられるって、
すごく幸せなのだ。


目の前の人と心で向き合うことを
諦めないようにしないとなぁ。
毎日逃げたくなるけど
逃げでも良いことがないことは
今までの人生で痛いほど分かってる。

 

人生とは
人の心と向き合い続ける戦いなのだ。

 

、、、心なんて実際には存在しないけども。

みんな違って、みんないい

金子みすずさんの有名な詩で
『わたしと小鳥と鈴と』
いうものがある。

 

小学生の頃、習った詩なのだけども
未だに憶えていたりする。

詩の内容としては
わたしにも鈴にも小鳥もそれぞれの良さがあることを歌っている。

誰かが凄くて誰かがダメというわけじゃない。
みんなに違う良さがあるのだ。

 

なんて、書いてて頭に浮かんでくるのは、
中田敦彦さんの
『優れるな、異れ』
という言葉だ。

 

、、、いや一緒じゃん!

 

っていう。

いろんな本を読んでいると、同じような言葉によく出会う。
あれ?これ他の人も言ってたよなぁっていう。
あるあるだ。

何度も出て来る言葉はきっと、それだけ多くの人が大切にしているからこそ、人生においても大切なのだろう。

 

人と違うことを
恐る必要はない。

コンプレックスに感じる必要はない。

あなたの良さは
その周りとの違いにあるかもしれないから。

誰かの上に行こうとしなくていい。
あなたのままでいい。

 

 

優れるな、異れ。

 

 

学生時代にヒントはあったんだなぁ(しみじみ)

人は失敗しないと気付けないんだろうね。

 

ありのままの自分を大切に。
ではまた。

 

欠けたピースを拾う為に

学生時代に後悔していることは山ほどある。
友達を大切にしなかったこと。
人と関わることを諦めたこと。
勉強を途中で諦めたこと。
バスケを途中で辞めたこと。
大学を辞めたこと。
文化祭に本気で取り組まなかったこと。

挙げ始めたらキリがない。
思えば頑張らなかった自分を許せてないのだ。

ちゃんと頑張って今日を生き続ければ
なくなる後悔なのだ。

諦めることは簡単だ。
自分の気持ちを無視することは簡単だ。

過去なんて振り返らねぇ!
前だけ向いて生きていく!

そう心から思えるなら、
その方が絶対良い。

ただ、あくまで僕は凡人で
どこまでいっても過去を忘れられない
今を生きられない平凡な自分なのだ。

ハイキューで縁下クンが言っていたセリフが
僕にはよく分かる。

諦める方が絶対に後から辛いのだ。

トラウマになって何年も何年も
自分を苦しめる。

僕は欠けたピースを拾わない限り、
前には進めないらしい。

学生時代のピースを完成させないと
社会人にはなれないらしい。

面倒な性格だ。
だが、そんな性格なのだから仕方ない。

前に進む為に
この春、大学に行く。

物語も書いて
転職もして
結婚もして
引っ越しもして
大学にも行く。

ハード過ぎないか2022年?
でも、それが20代折り返しを迎えた自分の覚悟。

あー、もう諦めたくねーなぁ!

できっこないを
今年はやるぞ。